選抜する側はなにを考えているのか?
ビジネススクール側にとって、その年度のクラスの学生の質をどのようにそろえるかは、各ビジネススクールによってそれぞれ異なる。黙っていても良質な学生が集まるトップスクールでも、たとえば留学生の割合はどのくらいにするか、職歴者の構成はどのくらいにするか……などを総合的に判断して、入学者を選抜する。
筆者の経験から言えば、この選抜で決め手となるのは、ダイバシティとマチュリティであり、それを知るために、エッセイやインタビューが重視される。
■ダイバシティの確保
MBAのクラスにとっていちばん重要なことは、ダイバシティである。すでに何度も述べたが、この多様性が存在しなければビジネスリーダーを育てるコースであるMBAプログラムの肝はなくなってしまう。そこで、ビジネススクール側は、それぞれ背景の異なる学生を適切な割合で選抜しようとする。
たとえば、米国のあるビジネススクールは、学部からの入学者を3割、残りは、国別、職業経験、アカデミックな成績、マチュリティや申請時期によって分けている。米国のビジネススクールの場合、学部からの入学者をある程度受け入れるケースが多いが、この場合も大学別に多様性を確保しようとする。もちろん、職歴のない学部卒留学生も受け入れる。
留学生の場合、たとえば、日本やアジアからの留学生の人数は初めからある割合に絞ることがある。最近は中国や韓国から応募者が優秀なのでそちらを優先し、日本人は落ちてしまうということも起こりうる。つまり、最初にある人数を決めた場合は、その後はいくら優秀な応募者であってもその期には入学させないこともありうる。
また、企業派遣留学生の場合は、その企業と大学のつながり(寄付金など)も考慮される。さらに、どの国でも世界的に注目を集める企業の出身者は、それなりに考慮される。
いずれにせよ、留学生には、なるべく同じような属性の者は避けるようにしている。これは、学生の学習効果のためだけではなく、その学生が、そのビジネススクールになにを貢献できて、どう利益になるかもビジネススクール側は考えているということだ。
こうした選抜をフェアでないと思う方もいると思うが、トップスクールの場合、最低限、学生の学力的背景は確保されているので、選抜はそれ以外の要素が決め手になるのは当然と言えよう。
大学でも米国、英国の名門では、極端に言えば、学力3割、財力3割、名門・家柄3割で入学させているところもある。それらは、その大学の貴重な財産となるからである。大学院、MBAとなれば、なおさらであろう。
■マチュリティの育成
MBA教育は、参加者(学生)のマチュリティをどう高めていくかにかかっている。だから、最初から1つのクラスがマチュリティの高い人ばかりでは、参加者の個性や考え方のぶつかり合いが小さくなる。すると、学生は期待通りに成長せず、MBAというよりは研究科課程になってしまう。同じく、まったくマチュリティのない参加者を集めてもMBA教育はできない。
そこで、学部卒業生も入れ、職歴の多彩な人間も入れるということになる。こうして、ダイバシティを持つクラスができれば、入学段階で各学生の経験、性格、能力、考え方などに多様性があり、よく意見がぶつかってクラスは活発化する。そして、卒業するころなると、各参加者は全員の多様性を受け入れることができるようになり、各人のマチュリティが高まっているということになる。
したがって、エッセイやインタビューでマチュリティの高さがいくら証明されても、合格が見送られるということもある。マチュリティが高ければいいということでもないので、なんとも難しい点である。
■エッセイ
過去になにをやってきて、いまなにが問題で、なんのためにMBAを取得し、その後将来をどう考えているか? さらには、MBA参加後、スクールになにが貢献できるのか?
などが、出願時のエッセイで要求される点である。これを論理的に書かなければならない。この後に、インタビュー(面接)がある場合は、この点を追及されることになる。もちろん、このエッセイの書き方に定型などなく、こう書けば合格などいう方法もない。ただ、素直になおかつわかりやすく論理的に書くことだろう。もちろん、エッセイの書き方を教える専門の学校がたくさんあるので、自分に合うようなところを選んで学んでいいと思う。
ただし、選抜側から見ると、テクニックだけで書かれたエッセイはいただけない。
こういうテクニックだけのエッセイ、本心とは違うことが書かれたエッセイは、その後にインタビューがあれば簡単に見破られてしまう。米ボルチモア大学の入学選考部長によれば、「うわべを装って私たちが希望する人物に見せかけても意味はない。素顔を見せてほしい」とのこと。これは大学の専攻だが、MBAとなれば他にはない自分自身の独創的な姿を、自然に見せることが必要となろう。
■ インタビュー
インタビュー(面接試験)がないところもある。また、本校まで行かれない場合は、電話で行ったり、その国にいる卒業生が代わってインタビューしたりするところもある。
スクールによって事情は異なるが、MBAの場合は他の大学院課程よりもインタビューは重視される。筆者が携わったウェールズ大学MBAでも、本校と同じくインタビューを最重要視し、人によっては20分で終わる場合もあったが、2時間もかかったこともあった。当然、エッセイに書かれたことを中心に質問するが、ときには時事的話題を質問し、応募者の関心の持ち方などをチェックする。要は、いかに柔軟に対応できるかである。
面白いのは、インタビューで応募者の求めていること、人間性がわかることで、これがわかると、いくら成績がよくても「やめた方がいい」と人生相談のようなインタビューになったこともあった。
■どんな応募者を落とすのか?
これには、確たる基準はない。スクールによっても違う。
前述したように、ダイバシティが重視されるので、いろいろな要素が絡み合い、たとえば、その期はたまたまダメで、違う期だったら入学できたということも起こりうる。
つまり、天下のハーバードMBAとはいえ、学業成績が高い人でも不合格になることはざらに起こる。筆者の修了したビジネススクールでも、学長は成績のいい応募者を平気で落としていた。
じつは、筆者も優秀な学歴を持ち成績もいい方を何人か落とさせてもらった。理由はみな同じ。インタビューをして、人間としての面白みが感じられなかったからと、先に述べたように、全体バランス上必要とならなかったからだ。
また話はややそれるが、筆者の場合、相談者に入学を勧めるようなことはほとんどしなかった。逆に、「わが校ではなく、他の日本の大学院に行かれてはどうでしょうか?」とよく言った。そう言うと、ほとんどの方は、「えっ、なぜですか? 他の学校はぜひ入学して欲しいと言われるのに!」と驚く。
日本ではまだMBAは買い手市場なので、相談者はお金を払えばどこでも入れるぐらいに思っている。しかし、いくらビジネススクールはサービス産業といえども、根幹には教育という機軸がなければならない。
教育は単なる物売り商品ではない。
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ビジネススクール側にとって、その年度のクラスの学生の質をどのようにそろえるかは、各ビジネススクールによってそれぞれ異なる。黙っていても良質な学生が集まるトップスクールでも、たとえば留学生の割合はどのくらいにするか、職歴者の構成はどのくらいにするか……などを総合的に判断して、入学者を選抜する。
筆者の経験から言えば、この選抜で決め手となるのは、ダイバシティとマチュリティであり、それを知るために、エッセイやインタビューが重視される。
■ダイバシティの確保
MBAのクラスにとっていちばん重要なことは、ダイバシティである。すでに何度も述べたが、この多様性が存在しなければビジネスリーダーを育てるコースであるMBAプログラムの肝はなくなってしまう。そこで、ビジネススクール側は、それぞれ背景の異なる学生を適切な割合で選抜しようとする。
たとえば、米国のあるビジネススクールは、学部からの入学者を3割、残りは、国別、職業経験、アカデミックな成績、マチュリティや申請時期によって分けている。米国のビジネススクールの場合、学部からの入学者をある程度受け入れるケースが多いが、この場合も大学別に多様性を確保しようとする。もちろん、職歴のない学部卒留学生も受け入れる。
留学生の場合、たとえば、日本やアジアからの留学生の人数は初めからある割合に絞ることがある。最近は中国や韓国から応募者が優秀なのでそちらを優先し、日本人は落ちてしまうということも起こりうる。つまり、最初にある人数を決めた場合は、その後はいくら優秀な応募者であってもその期には入学させないこともありうる。
また、企業派遣留学生の場合は、その企業と大学のつながり(寄付金など)も考慮される。さらに、どの国でも世界的に注目を集める企業の出身者は、それなりに考慮される。
いずれにせよ、留学生には、なるべく同じような属性の者は避けるようにしている。これは、学生の学習効果のためだけではなく、その学生が、そのビジネススクールになにを貢献できて、どう利益になるかもビジネススクール側は考えているということだ。
こうした選抜をフェアでないと思う方もいると思うが、トップスクールの場合、最低限、学生の学力的背景は確保されているので、選抜はそれ以外の要素が決め手になるのは当然と言えよう。
大学でも米国、英国の名門では、極端に言えば、学力3割、財力3割、名門・家柄3割で入学させているところもある。それらは、その大学の貴重な財産となるからである。大学院、MBAとなれば、なおさらであろう。
■マチュリティの育成
MBA教育は、参加者(学生)のマチュリティをどう高めていくかにかかっている。だから、最初から1つのクラスがマチュリティの高い人ばかりでは、参加者の個性や考え方のぶつかり合いが小さくなる。すると、学生は期待通りに成長せず、MBAというよりは研究科課程になってしまう。同じく、まったくマチュリティのない参加者を集めてもMBA教育はできない。
そこで、学部卒業生も入れ、職歴の多彩な人間も入れるということになる。こうして、ダイバシティを持つクラスができれば、入学段階で各学生の経験、性格、能力、考え方などに多様性があり、よく意見がぶつかってクラスは活発化する。そして、卒業するころなると、各参加者は全員の多様性を受け入れることができるようになり、各人のマチュリティが高まっているということになる。
したがって、エッセイやインタビューでマチュリティの高さがいくら証明されても、合格が見送られるということもある。マチュリティが高ければいいということでもないので、なんとも難しい点である。
■エッセイ
過去になにをやってきて、いまなにが問題で、なんのためにMBAを取得し、その後将来をどう考えているか? さらには、MBA参加後、スクールになにが貢献できるのか?
などが、出願時のエッセイで要求される点である。これを論理的に書かなければならない。この後に、インタビュー(面接)がある場合は、この点を追及されることになる。もちろん、このエッセイの書き方に定型などなく、こう書けば合格などいう方法もない。ただ、素直になおかつわかりやすく論理的に書くことだろう。もちろん、エッセイの書き方を教える専門の学校がたくさんあるので、自分に合うようなところを選んで学んでいいと思う。
ただし、選抜側から見ると、テクニックだけで書かれたエッセイはいただけない。
こういうテクニックだけのエッセイ、本心とは違うことが書かれたエッセイは、その後にインタビューがあれば簡単に見破られてしまう。米ボルチモア大学の入学選考部長によれば、「うわべを装って私たちが希望する人物に見せかけても意味はない。素顔を見せてほしい」とのこと。これは大学の専攻だが、MBAとなれば他にはない自分自身の独創的な姿を、自然に見せることが必要となろう。
■ インタビュー
インタビュー(面接試験)がないところもある。また、本校まで行かれない場合は、電話で行ったり、その国にいる卒業生が代わってインタビューしたりするところもある。
スクールによって事情は異なるが、MBAの場合は他の大学院課程よりもインタビューは重視される。筆者が携わったウェールズ大学MBAでも、本校と同じくインタビューを最重要視し、人によっては20分で終わる場合もあったが、2時間もかかったこともあった。当然、エッセイに書かれたことを中心に質問するが、ときには時事的話題を質問し、応募者の関心の持ち方などをチェックする。要は、いかに柔軟に対応できるかである。
面白いのは、インタビューで応募者の求めていること、人間性がわかることで、これがわかると、いくら成績がよくても「やめた方がいい」と人生相談のようなインタビューになったこともあった。
■どんな応募者を落とすのか?
これには、確たる基準はない。スクールによっても違う。
前述したように、ダイバシティが重視されるので、いろいろな要素が絡み合い、たとえば、その期はたまたまダメで、違う期だったら入学できたということも起こりうる。
つまり、天下のハーバードMBAとはいえ、学業成績が高い人でも不合格になることはざらに起こる。筆者の修了したビジネススクールでも、学長は成績のいい応募者を平気で落としていた。
じつは、筆者も優秀な学歴を持ち成績もいい方を何人か落とさせてもらった。理由はみな同じ。インタビューをして、人間としての面白みが感じられなかったからと、先に述べたように、全体バランス上必要とならなかったからだ。
また話はややそれるが、筆者の場合、相談者に入学を勧めるようなことはほとんどしなかった。逆に、「わが校ではなく、他の日本の大学院に行かれてはどうでしょうか?」とよく言った。そう言うと、ほとんどの方は、「えっ、なぜですか? 他の学校はぜひ入学して欲しいと言われるのに!」と驚く。
日本ではまだMBAは買い手市場なので、相談者はお金を払えばどこでも入れるぐらいに思っている。しかし、いくらビジネススクールはサービス産業といえども、根幹には教育という機軸がなければならない。
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by bravo54410
| 2009-10-08 20:37
| MBA