4割がフリーターになるというバカらしさ
(拙著「間違いだらけのMBA」光文社PB09年3月より引用)
「高学歴ワーキングプア」という言葉がある。これは、ずばり本のタイトル(水月昭道・著、光文社新書)であり、「フリーター生産工場としての大学院」の実態を暴いたものである。
大学院に進学し、博士号まで取得したのに、大学教員の常勤ポストを得られる見通しはほとんどゼロで、企業の博士採用も消極的。収入は「非常勤講師とコンビニのバイトで月収15万円」というのが、日本の高学歴者の4割に達しているというのだから、笑えない。
博士がこれなら、MBAなどの専門職学位取得者はどうかというと、こちらも壊滅的である。
文部科学省が発表している「学校基本調査」(平成19年度調査速報)によると、博士課程修了者の就職率は58.8%、専門職学位取得者のそれは、わずか26.6%なのである。これは欧米では考えられないことで、とくに米国では、学位と就職、収入が連動している。つまり、グラデュエイト・スクールやプロフェッショナル・スクール(ロー・スクールやビジネススクールなど)を出たほうが就職・転職にも恵まれ、給料も学部卒業者より高い。米国の場合、学位別による平均年収には、およそ次のような目安がある。
博士号(PhD)取得者-----------------------------------8~9万ドル
プロフェッショナル・スクール修士取得者--------10万ドル以上
グラデュエイト・スクール修士取得者--------------6~7万ドル
大学卒・学士取得者---------------------------------------5万ドル
高校卒業者--------------------------------------------------2~3万ドル
このように、学位(学歴)と収入がほぼ一致しているのが米国社会である。したがって米国では、向上心のある者は必ず上級学位の取得を目指す。ちなみに、MBAの場合は、平均年収10万ドル(約1200万円)は普通で、ランク上位のトップスクールの場合は15万ドル以上がざらである。たとえば、ハーバードのビジネススクールでMBA取得して就職した場合の初任給は10万ドル以上が確実とされ、10年後は50万ドルになると言われている。もちろん、米国社会は初任給も企業側との交渉で決まるから、規定の額というものはない。日本のように、どこの大学卒でも、大学卒ならみな同じ初任給というのは、ありえないシステムである。
また、たとえばフランスでは、高等教育にはおおむね2つあり、1つは大学、もう1つはグランゼコールがある。したがって、エリート志向の学生はグランゼコールを目指す。大学はごく普通の教養を得る学校という認識である。教育的特権階級は、やはりグランゼコール卒業である。グランゼコールを卒業して社会に出れば、すぐに管理職としてのポジションが得られ、各学校によって初任給が異なる。就職時の大企業の就職課の窓口も、大学卒とグランゼコール卒とは違っているのだ。
このように、学位と収入が連動しないと、人間というものは努力しない。どこの大学を出ようと同じ給料、まして、大学院を出たら就職はほとんどなくなく、給料も変わらないとしたら、そこまで努力する若者はいなくなる。
ところが、高学歴ワーキングプアは激増しているのである。いったいなぜ、こんな矛盾したことが起こったのだろうか?
それは、文部省(当時)が1990年代初頭から押し進めた「大学院重点化」政策にある。これは、「世界的水準の教育研究の推進」を目指すという高(こう)邁(まい)な目標の下に、当時、国際的に見ると貧弱だった日本の大学院教育を強化し、優秀な研究者や高度な専門性をもつ職業人を育成しようとしたものだった。この政策は、基本的には間違ってはいない。そうしなければ、グローバル化に対応する人材は生み出せないからである。
しかし、日本の企業社会が、これに着いてこなかった。しかも、日本経済は長期低迷に陥り、「失われた10年」に突入してしまい、就職氷河期が訪れたのである。
文科省の大学院重点化政策は理念だけではなく、補助金というニンジンがついていた。すなわち、「大学院の教育課程や教育条件の改善・改革を行った大学には予算を25%増しにする」ということであった。これで、国立大学から有名私大、地方の公立、私大までが、定員の確保、募集枠の拡大、大学院の設置といった具合に、大学院生grad studentを増産し始めたのである。そして、専門職大学院(日本版プロフェショナル・スクール)が誕生し、さらに大学は独立法人化されることになって、ますます、この流れは加速した。
しかし、そうして生まれた高学歴者の収容先については、文科省も企業社会も考えなかった。もちろん、1990年代にグローバル化が始まったとき、日本がそれに適応できる政策を打ち出し、経済も成長していたなら、問題は起こらなかっただろう。
しかし、日本経済は低迷し,そのあおりを受けた学生たちは、本来の目的を考えればありえない大学院進学を目指したのである。学部を卒業しても就職できそうもないから、大学院に進もうとした。ずるずると社会に出るのを引き延ばすために、大学院が利用されることになった。しかも、大学側は定員を確保するために、指導教官が学部生を一本釣りするようなケースも少なくなかったという。まさに、笑えない悪循環である。
いずれにせよ、文科省の政策は、文科省レベルでは成功した。1985年に約7万人だった大学院生は、2006年時点では、なんと約26万人に増えたのである。東大ですら、2006年度のデータを見ると、学部入学者が3161名に対して、大学院入学者は3426名と、院と学部の逆転現象を起こすまでになってしまった。
これで、少子化で経営難に陥るはずだった大学が、大学院生という格好の金づるを得て一息ついたのは確かである。
しかし、こんなことでいいのであろうか?
結果的に、日本は優秀な人材をスポイルしてしまったのではなかろうか?
大学院が増え、大学院卒業生も増えた。これは、常識的に考えれば、高等教育がさらに普及し、それによって優秀な人材が輩出されることにつながるはずである。しかし、日本の場合は、どうであったか?
日本は高等教育のシステムを世界基準に改め、学位などの基準も世界に合わせるべきであろう。そして、大学と企業側が協力して、優秀な人材を一緒に育てていくことがなにより大事だ。
以上
以前ブログでも述べたようにこのような状況であろうと個人に取っては学ぶべきことはそれぞれ違う訳で、その専門教育はプロフェッショナルスクールで身に着けることも重要である。それは単なる手法や知識と言うハードスキルばかりではなく人とのもみ合いから生まれるソフトスキル(特に外国人に対する日本人のそれは貧弱)も重要な要素である。やはり就職の受け皿ばかりでなく自己の発見や自己開発という面で社会人大学院に行くことは長い人生を考えれば決して損ではない。特に社会人大学院の中でも社会人の比率が高くダイバーシティーな環境をよしとして多様な人材を受け入れているコースはお勧めである。ちなみに東大と言えでも中にはそのようなコースが見受けられる。
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(拙著「間違いだらけのMBA」光文社PB09年3月より引用)
「高学歴ワーキングプア」という言葉がある。これは、ずばり本のタイトル(水月昭道・著、光文社新書)であり、「フリーター生産工場としての大学院」の実態を暴いたものである。
大学院に進学し、博士号まで取得したのに、大学教員の常勤ポストを得られる見通しはほとんどゼロで、企業の博士採用も消極的。収入は「非常勤講師とコンビニのバイトで月収15万円」というのが、日本の高学歴者の4割に達しているというのだから、笑えない。
博士がこれなら、MBAなどの専門職学位取得者はどうかというと、こちらも壊滅的である。
文部科学省が発表している「学校基本調査」(平成19年度調査速報)によると、博士課程修了者の就職率は58.8%、専門職学位取得者のそれは、わずか26.6%なのである。これは欧米では考えられないことで、とくに米国では、学位と就職、収入が連動している。つまり、グラデュエイト・スクールやプロフェッショナル・スクール(ロー・スクールやビジネススクールなど)を出たほうが就職・転職にも恵まれ、給料も学部卒業者より高い。米国の場合、学位別による平均年収には、およそ次のような目安がある。
博士号(PhD)取得者-----------------------------------8~9万ドル
プロフェッショナル・スクール修士取得者--------10万ドル以上
グラデュエイト・スクール修士取得者--------------6~7万ドル
大学卒・学士取得者---------------------------------------5万ドル
高校卒業者--------------------------------------------------2~3万ドル
このように、学位(学歴)と収入がほぼ一致しているのが米国社会である。したがって米国では、向上心のある者は必ず上級学位の取得を目指す。ちなみに、MBAの場合は、平均年収10万ドル(約1200万円)は普通で、ランク上位のトップスクールの場合は15万ドル以上がざらである。たとえば、ハーバードのビジネススクールでMBA取得して就職した場合の初任給は10万ドル以上が確実とされ、10年後は50万ドルになると言われている。もちろん、米国社会は初任給も企業側との交渉で決まるから、規定の額というものはない。日本のように、どこの大学卒でも、大学卒ならみな同じ初任給というのは、ありえないシステムである。
また、たとえばフランスでは、高等教育にはおおむね2つあり、1つは大学、もう1つはグランゼコールがある。したがって、エリート志向の学生はグランゼコールを目指す。大学はごく普通の教養を得る学校という認識である。教育的特権階級は、やはりグランゼコール卒業である。グランゼコールを卒業して社会に出れば、すぐに管理職としてのポジションが得られ、各学校によって初任給が異なる。就職時の大企業の就職課の窓口も、大学卒とグランゼコール卒とは違っているのだ。
このように、学位と収入が連動しないと、人間というものは努力しない。どこの大学を出ようと同じ給料、まして、大学院を出たら就職はほとんどなくなく、給料も変わらないとしたら、そこまで努力する若者はいなくなる。
ところが、高学歴ワーキングプアは激増しているのである。いったいなぜ、こんな矛盾したことが起こったのだろうか?
それは、文部省(当時)が1990年代初頭から押し進めた「大学院重点化」政策にある。これは、「世界的水準の教育研究の推進」を目指すという高(こう)邁(まい)な目標の下に、当時、国際的に見ると貧弱だった日本の大学院教育を強化し、優秀な研究者や高度な専門性をもつ職業人を育成しようとしたものだった。この政策は、基本的には間違ってはいない。そうしなければ、グローバル化に対応する人材は生み出せないからである。
しかし、日本の企業社会が、これに着いてこなかった。しかも、日本経済は長期低迷に陥り、「失われた10年」に突入してしまい、就職氷河期が訪れたのである。
文科省の大学院重点化政策は理念だけではなく、補助金というニンジンがついていた。すなわち、「大学院の教育課程や教育条件の改善・改革を行った大学には予算を25%増しにする」ということであった。これで、国立大学から有名私大、地方の公立、私大までが、定員の確保、募集枠の拡大、大学院の設置といった具合に、大学院生grad studentを増産し始めたのである。そして、専門職大学院(日本版プロフェショナル・スクール)が誕生し、さらに大学は独立法人化されることになって、ますます、この流れは加速した。
しかし、そうして生まれた高学歴者の収容先については、文科省も企業社会も考えなかった。もちろん、1990年代にグローバル化が始まったとき、日本がそれに適応できる政策を打ち出し、経済も成長していたなら、問題は起こらなかっただろう。
しかし、日本経済は低迷し,そのあおりを受けた学生たちは、本来の目的を考えればありえない大学院進学を目指したのである。学部を卒業しても就職できそうもないから、大学院に進もうとした。ずるずると社会に出るのを引き延ばすために、大学院が利用されることになった。しかも、大学側は定員を確保するために、指導教官が学部生を一本釣りするようなケースも少なくなかったという。まさに、笑えない悪循環である。
いずれにせよ、文科省の政策は、文科省レベルでは成功した。1985年に約7万人だった大学院生は、2006年時点では、なんと約26万人に増えたのである。東大ですら、2006年度のデータを見ると、学部入学者が3161名に対して、大学院入学者は3426名と、院と学部の逆転現象を起こすまでになってしまった。
これで、少子化で経営難に陥るはずだった大学が、大学院生という格好の金づるを得て一息ついたのは確かである。
しかし、こんなことでいいのであろうか?
結果的に、日本は優秀な人材をスポイルしてしまったのではなかろうか?
大学院が増え、大学院卒業生も増えた。これは、常識的に考えれば、高等教育がさらに普及し、それによって優秀な人材が輩出されることにつながるはずである。しかし、日本の場合は、どうであったか?
日本は高等教育のシステムを世界基準に改め、学位などの基準も世界に合わせるべきであろう。そして、大学と企業側が協力して、優秀な人材を一緒に育てていくことがなにより大事だ。
以上
以前ブログでも述べたようにこのような状況であろうと個人に取っては学ぶべきことはそれぞれ違う訳で、その専門教育はプロフェッショナルスクールで身に着けることも重要である。それは単なる手法や知識と言うハードスキルばかりではなく人とのもみ合いから生まれるソフトスキル(特に外国人に対する日本人のそれは貧弱)も重要な要素である。やはり就職の受け皿ばかりでなく自己の発見や自己開発という面で社会人大学院に行くことは長い人生を考えれば決して損ではない。特に社会人大学院の中でも社会人の比率が高くダイバーシティーな環境をよしとして多様な人材を受け入れているコースはお勧めである。ちなみに東大と言えでも中にはそのようなコースが見受けられる。
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by bravo54410
| 2009-10-01 20:29
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